宮城県石巻市の被災地訪問

  3月27日の日曜日にようやく国会日程があきましたので、日帰りで初めて被災地に入りました。最も被害の大きい宮城県石巻市に向かうため、朝6時に東京の自宅を車で出発し、帰宅したのは午後9時を回っていました。現地での滞在時間は5時間程でしたが被災現場、避難所を訪問いたしました。 
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  まず、被害の大きさに驚きました。16年前の阪神・淡路大震災の被災者であった私といたしましては、当時の被害状況と比して、直下型地震と津波被害の違いを痛感いたしました。阪神・淡路大震災の場合は、街中がれきの山でしたが、崩壊したビル、横倒しとなった電柱、その他の破損物が原型をとどめ残っておりましたが、今回のような津波の被害はすべて泥まみれで粉々になっており、以前その場所に何があったのか判別ができないほどの惨状でした。時折、高い鉄筋のビルの骨組みのみが残る程度で、跡形もなく打ちのめされ、見る影もなく、一面、津波が運んだ泥とがれきの山と化しています。自分の家がどこにあったのかもわからない状況に置かれ、一瞬にして多くの尊い人命が、そして平穏な生活が失われてしまいました。
  私は石巻市の復旧本部を訪ねて亀山紘市長とお会いし、中央政府に対する数々の要望を受けました。市役所の庁舎の中も避難場所として使用されており、被災された方が一睡の余地もないほど毛布に包まり不安な生活を余儀なくされておられます。地震が発生した3月11日から2週間以上が経過していながら、現地はいまだ復興の目処は立っておらず、復興の前にいかに生きるか、明日をどうするかという問題に直面しています。私も民主党地震対策本部副本部長として、今回、阪神・淡路大震災の経験を活かして一日も早い復興に向け微力ながら尽力して参ります。 
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  前回のこの欄で、石巻市で9日ぶりに、救出された80歳の祖母と16歳の孫が、かつて私の秘書として仕えてくれた阿部明君の母親の寿美さんと息子さんの任くんであることを紹介しましたが、2人が入院している石巻赤十字病院を訪ね、飯沼 一宇院長にまずお会いしました。祖母の寿美さんは既に元気を取り戻して退院されておりました。一人、孫の任君がベットに横たわっており、両親は不在でしたので私の元秘書の明君に会うことができませんでした。入院以来、10日が経過していますが、外部からの面会者は一切受け入れられずに、私が最初の訪問者となりました。
  私が入室するとオドオドしていましたが、私のドスの効いたユーモアを交えた大きな声に緊張がほぐれ、笑顔が徐々に出てきました。「“君は大した少年だ”暗い連日の地震報道のなかで、本当に明るいニュースを日本中に広めてくれた。最初に自分よりもおばさんを助けて、と叫んだ君の行動には日本中が感動したよ」と言ってやりました。まだ両足が大きく腫れあがっていたのでさすってやりました。深々と伸びた頭髪をなでてやったら嬉しそうに首をすくめました。「君は芸術家になりたいそうだが、政治家になっても良いよ。有名になったから」、、、任君はびっくりしたような素振りを見せ、「僕は絵描きになりたいんです」と答え、「よし、頑張れ、いい絵をかけよ」と激励し病院を後にしました。
 私は、今回の被災地訪問の前日、菅総理に今後の備えとして、私がかねてから主張している危機管理副首都構想を実現し、極度の一極集中の首都をバックアップする体制を一日も早く構築しなければならないと、その重要性と緊急性を訴え、菅総理も私のこの構想に「大切なことだ」と、理解を示しました。