JATPの開催にあたって

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  来る8月21日(日)夕刻、東京・文京シビックホール「大ホール」で“石井一とJATP in Tokyo”を開催いたします。ジャズのお好きな方は奮ってお出かけ下さい。日本で初めての公演です。
  1953年秋、日劇を興奮の渦に巻き込んだ歴史的ジャズの祭典、JATPをいまここにもう一度再現し、あの時代にタイムスリップし、ノーマン・グランツならぬ石井一がプロデュースするジャズの新企画を、この度提供することにいたしました。                                
社団法人日本音楽家協会 会長;石井  一
 
   ノーマン・グランツ(ジャズ・プロモーター・プロデューサー)の率いる総勢30名を超えるアメリカのトップ・ジャズマンが1953年の11月に来日した。敗戦後間もない荒廃した東京・羽田空港へ到着し、オープンカー10数台を連ねて銀座へ入った。私は当時18歳の高校三年生だったが、ノーマン・グランツを乗せてパレードの先頭車・クライスラーを運転した。私の父が当時、日本マーキュリーレコードの社長をしていたが、私財を投げ打ってこの企画を受け入れた。いま回顧すれば父もよくそれだけの決心をしたものだと改めて感激を覚えている。
 あれから58年の歳月が流れたが、この最大のイベントは私が初めてジャズにめぐり会った瞬間であり、私の青春時代の古き良き貴い思い出として今も鮮明に生きている。
 JATPとはJazz At The Philharmonic の頭文字をとったもので、各楽器の一流のプレーヤーを一堂に集めて演奏するスケールの大きいジャムセッションである。
自由奔放で単純明快にスイングしてブローする特殊集団なのである。プロ野球のオールスター戦と同じ様な豪華なラインアップで、卓越した個人技をセールスポイントとする超一流のジャズミュージシャンを臨時編成で集めた即興のグループであった。
 1940年代はジャズの黄金期であり、ビックバンドの最盛期であった。オールドジャズファンなら誰でも知っているカウント・ベーシー、デューク・エリントン、グレン・ミラー、ベニー・グッドマン、ウッディ・ハーマン、ハリー・ジェイムスなどは当時の代表的なビッグバンドだった。ノーマン・グランツは全米各地から秀でた有能なプレーヤーをあらゆるグループから発掘してきた。演奏では楽譜は使用せず、個人のプレーヤーが即興合奏する。しかし技術が抜群でインスピレーションとフィーリングが卓越しているのでユニゾンのハーモニーも迫力満点で実にダイナミックなものだった。一人一人のプレーヤーにとっては、与えられた譜面に従ってビックバンドの一構成員として制約されたプレーをするよりも、はるかにリラックスして楽しい演奏ができた。自由奔放に実力を発揮し、思いのままのプレーができる。聴衆の生の反応を楽しみ、両者が一体となるJATPは興奮と熱気のルツボと化した。
 グランツは全米各地でそして全世界でJATPを企画し大ヒットした。1950年代に入るとジャズ界の大物はほとんどグランツの傘下に入った。ジャズ史上ではグランツほど多くの一流のジャズメンと契約したプロモーター兼プロデューサーは他にいない。強力なるラインアップがJATPの人気を不動のものとし、プレーヤーもJATPのメンバーにランクされることは超一流プレーヤーとしての認知とプレステージを得ることとなった。
 1953年、グランツは全米での最高のメンバーを率いて来日したが、そのころはスイングジャズの最盛期であったと言える。その時の主たるメンバーを最後に列記するがまさに空前絶後の豪華版だった。日劇のステージの上で展開されたリズム感あふれたジャムセッションのド迫力と、それと対照的なバラードメロディの美しさは形容ができないほど魅力的だった。当時のJATPの来日は日本のジャズ界に有形無形の影響を与えてくれた。あの秋吉敏子がオスカー・ピーターソンに見いだされたシンデレラ物語もこの時生まれた。
   当時はティーン・エイジャーの三人のアイドル娘、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみが日劇の楽屋に連日通ってきて有名プレーヤーのサインを、私を通して求めていたのもつい昨日のことのように懐かしい想い出である。この時のJATPの来日はまさに日本のジャズ界に空前のセンセイションを起こした。日本のジャズマンやジャズファンに与えた興奮と陶酔はまさに空前絶後のインパクトを残してくれた。 しかし、JATPの魅力と迫力は当時の日本ではほとんど知られてなかった。この来日を企画し受け入れることは大変危険な賭けだった。しかし、父はそれにあえて挑戦し成功させた。

1953 ノーマン・グランツとJATP in Tokyo
(トランペット)ロイ・エルドリッチ(42歳)
(トランペット)チャリー・シェイヴァース(36歳)
(トロンボーン)ビル・ハリス(36歳)
(アルトサックス)ベニー・カーター(46歳)
(アルトサックス)ウィリー・スミス(44歳)
(テナーサックス)ベン・ウェブスター(44歳)
(テナーサックス)フリップ・フィリップス(38歳)
(ピアノ)オスカー・ピーターソン(28歳)
(ギター)ハーブ・エリス(32歳)
(ベース)レイ・ブラウン(26歳)
(ドラムス)シェイシー・ハード(35歳)
(ドラムス)ジーン・クルーパー(44歳)
(ヴォーカル)エラ・フィッツジェラルド(35歳)
(MC)ノーマン・グランツ(35歳)

2011 石井一とJATP in Tokyo (出演者案)
(スペシャルゲスト・ピアノ)サ・チャールズ・トンプソン(93歳)
(ピアノ)今田 勝(79歳)
(クラリネット)藤家 虹二(78歳)
(アルトサックス)五十嵐 明要(79歳)
(トランペット)外山 喜雄(67歳)
(テナーサックス)峰 厚介(67歳)
(ギター )増尾 好秋(65歳)    
(トロンボーン)片岡 雄三(44歳)
(ドラム)サバオ 渡辺(58歳)
(ベース)藤崎 羊一(52歳)   
(MC)石井  一(77歳)

 今回の2011 JATP in Tokyo は58年前の日劇を思い出し、父の思い出とともに企画させていただいた。縁あって社団法人日本音楽家協会の会長に就任して3年となる。お陰で現在活躍されている一流のジャズマンとの交流もかなり出来た。これらジャズメンの中から特に有能でお客さんの人気も高いプレーヤーの方々に集まって頂いた。念のため58年前の来日JATPメンバーと今回の日本版JATPメンバーの年齢を比較してみて驚いた、アメリカ側は現在は残念ながら一人も生存されていないが、58年前来日時は、最年少レイ・ブラウンが26歳、最年長ベニー・カーターでも46歳、平均は30歳代の若さだった。
 今回の日本側は、いちばん若い片岡雄三が44歳、最年長はゲストのサー・チャールス・トンプソンの93歳は別格として、今田勝と藤家虹二の二人が何と79歳、私が77歳で一番年長かと思っていたら上には上があるのでビックリした。勿論この大ベテラン方はとても元気でパワーも充分だ。ジャムセッションでは大スイングするし、バラードを吹かせれば極上のハートフルプレイを聴かせてくれる。
 しかし、日本の若手にもJATP流のプレーを聴かせるスイング系がいない筈はないと思うので、次回は58年前の来日グループに比肩する様な年代のプレーヤーを是非集めてみたい。そんな思いも含めて今後このJATP企画を出来れば毎年継続して行い、多くのミュジシャンに登場頂き、日本のジャズの発展の為に一層寄与したいと念願している。

第3回選挙セミナーで講演

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   7月14日、国会内で衆・参両院の当選1回生議員を対象に「第3回選挙セミナー」を開催いたし、私が選挙対策委員長として、来るべき総選挙に向け日々の地域での地道な活動の必要性を講演いたしました。
 民主党新人議員は、政権交代の追い風で当選した議員が多く一期生だけで143名にのぼります。そしてその内訳は小選挙区当選者72名、選挙区で敗れたが比例惜敗率で救われた者35名。それに加えて選挙をせずにリストだけ当選した議員が36名にのぼります。
 現在は前回に比して政権状況は悪く、次回は逆風の選挙となります。143名の新人が何人生き残れるのか、はなはだ寒いものがあります。そこで私は、日常の政治活動を如何に展開するか、別の言葉で言えば空中戦でなく地上戦をどう戦うかについて1時間に及ぶ講演をいたしました。振り返れば私は、30才の時から50年近く選挙を戦ってきました。衆議院選挙14回(うち中選挙区で10回、小選挙区で4回)、参議院の全国比例が1回と都合15回で12勝3敗の成績が残っています。選挙は私の人生そのものだったのです。その意味で私は自他とも認める選挙のプロだと自負しています。
 総選挙は遅い方が良いのです。今解散すれば民主党は壊滅的な打撃を受け、まさに解党の危機に直面するでしょう。私はそれを何としても避けたいと考えます。近年の特に二回の総選挙の傾向を見れば、2005年の郵政選挙、2009年政権交代選挙は全く異質なもので、いわゆる風に左右され、逆風と順風の一方の政党が大勝するムード選挙が続いております。これも小選挙区制度の中での弊害と言えなくはないのですが、やはり1期生議員が地域に根を張り、強い意志と忍耐力を持って準備と活動に取り組まなければなりません。一部に報道では、菅直人首相が脱原発を争点に衆院選に踏み切るとの臆測があるようですが、私自身は2年後に衆・参ダブル選挙が望ましいと考えており、地域に深く入り、有力者や企業・団体を積極的に回るよう具体的なお話をさせていただきました。
 政権交代の成果は、1年や2年では評価できません。民主党は旧来の自民党政権よりはるかに良い政権です。それが十分国民に理解されておりません。しかし、それがいずれは理解される日が来ると私は確信しています。選挙は生き物です。“龍となれ、雲自ら出ず”です。自分自身が火の玉となれば、その姿を見て人は動くものです。そして票がその結果、自らわいてきます。それが当選につながります。如何に地域にキーマンを何人作れるかが勝負で、政治は人生の感激のドラマです。“選挙は極楽と地獄を彷徨う旅である”と申しました。私の貴重な経験からの信条です。
 最近の民主党に対する日々のマスコミ報道を見ますと、相変わらず、政局を念頭に置いた偏った報道が目立ち、政権批判が目立ちます。政権政党としてそれに耐えなければならないのですが、民主党が分裂含みであるとか、党内の菅首相下ろしとかが、連日紙面にあふれ、過大に報道されていることは誠に残念でなりませんが、民主党の地道な政治姿勢を正当に評価して頂ける何れ時が来るまで、従来の空中戦から決別して、地域に根ざした活動、いわゆる地上戦を地道に行い、いずれ行われる総選挙で新人議員の目減りを如何に食い止めるか、このことに党をあげて邁進してまいります。

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全国幹事長・選挙責任者会議開催

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   7月9日、党本部で全国幹事長・選挙責任者会議が開催され、(1)重要法案等の取り扱い状況(2)第3次補正予算編成への取り組み(3)衆参選挙制度の改革(4)党改革本部の議論などについて経過の報告(5)先の全国幹事長会議で指摘された点の改善措置―が報告されました。
   私は、選挙対策委員長として統一地方選挙で惜敗した候補者への支援について、全国的に適用する支援と、今回の選挙でとくに多くの落選者を出した特定の府県連に対する支援の、二本立ての救済策を提示いたしました。
全国的支援策は、今回の道府県議選挙、政令市議選挙(茨城県議選挙、名古屋市議選挙を含む)で惜敗した候補者の中から「○○都道府県連民主党政策委員」を任命し、引き続き活動を継続し、次回選挙で捲土重来を期す候補者に一定の金額を毎月支援いたします。
   この「○○都道府県連民主党政策委員」任命要件は①捲土重来を期す固い決意を持つ者。②今回の惜敗率、年齢、選挙区情勢等を勘案し、次回選挙での相当の当選可能性があると総支部長及び都道府県連が認めた者。③都道府県連の申請を受けて党本部がこれを認めた者で、政策委員の資格は1年度毎の更新制度として、毎年度の活動状況報告を受けて、3回を限度に更新できるものとし、特に今回の統一地方選挙で、主に「地域政党」や新党の伸長により県議、政令市議が大幅に減少した、大阪・愛知・神奈川・千葉・埼玉の各5府県連を対象に特別の支援措置を講ずることとし、具体的には、当該府県連が次期統一選に向けた「地域基盤再建計画」を策定し、今回の落選候補者の人材活用をはかり、嘱託雇用によってこの計画を実施します。
 嘱託契約者の選定要件は、政策委員と同じものですが、契約者は自分の選挙区のみならず、広い地域で次期総選挙に向けの「地域基盤再建計画」に奔走していただくことになります。但し、党本部負担の上限は、大阪・愛知・神奈川各府県連は1000万円、埼玉・千葉各県連は500万円とし、1年度毎の更新制度として、毎年度の活動状況報告を受けて、3回を限度に更新できるものといたします。
 最後に、質疑の中で私が出席者の皆様に申し上げたのは、現在、メディアを通じて党内で菅首相への批判や退陣時期に言及する幹部がおりますが、自らが身を置く党の上司の悪口を口にすれば、必ず自らに降りかかってくると。被災地のがれき撤去の問題、仮設住宅の建設の遅れ、原発事故の対応など、文句を言えばきりがありませんが、未曾有の大災害で、誰がやっても批判はつきものです。復興は徐々に着実に進んでいます。菅首相には被災地の復興、原発事故対応など、一瞬たりとも休むことなく一生懸命全力で取り組んでもらいたい、それがいずれ国民に評価されるはずです。マスコミも菅首相下ろしに加担するのではなく、暫く静かに見守ってやってもらいたいものです。

石原・東京都知事、橋下・大阪府知事と会談

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    7月1日、東京都庁で、私と東京都の石原慎太郎知事、大阪府の橋下徹知事で会談し、大阪を「副首都」と位置づけることで一致いたしました。今回の会談は私が両知事に呼びかけ実現したもので約20分間、非公開で行われ、(1)東京の一極集中の是正(2)大阪都構想は紛らわしいので大阪を副首都として位置づける(3)関西3空港体制を2空港し、世界一危険な空港・伊丹は廃港する。その跡地に危機管理都市を建設する。(4)中央リニアを東京―大阪間で一括着手すれば約55分で結ぶ。東京―名古屋間、次いで名古屋―大阪間の二段階建設を避ける(5)その結果、東京・大阪間の航空便は必要がなくなり消滅する等、踏み込んだ議論を行いました。
 
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   今回の会談に先がけて、実は、菅直人内閣に対する不信任決議案が採決されようとしていた6月2日正午すぎに、私は超党派の「危機管理都市(NEMIC)推進議員連盟」会長として、首都・東京が災害に遭った場合に備え、首都の代替機能を持つ副首都を大阪(伊丹)空港跡地に実現させることを説明するため、東京都庁7階の知事室で石原慎太郎知事と会談いたしました。その際に、東日本大震災の震源地から約400キロも離れた首都・東京ですら、湾岸地域の液状化現象、長周期地震動でたわむ超高層ビル群、約10万人ともいわれる都内の帰宅困難者の姿は過密都市の弱点をまざまざとみせつけたことに触れ、「このクラスの地震が東京を直撃したら、さらに恐ろしい事態になります。私たちは東京がそうした危機に見舞われた場合に、バックアップできる副首都を作ろうとしているんです。知事にご賛同いただけると、大きな推進力になるんですが…」と、話しました。
   石原知事からは「東京一極集中の問題点は私も十分理解しています。首都機能の移転でなければ支持しますよ」と、我々議連の活動に高い評価を頂きました。そこで私は、「大阪の伊丹空港跡地に危機管理都市を作ろうというところまできてるんです。大阪府の橋下徹知事も大賛成なんです」と、報告したところ、石原知事は「橋下知事と一度、会って話をしてみたいですな」となって、私は「さっそくセッティングしましょう」となったわけです。 私は、都庁を後にした後、すぐさま橋下知事に電話し、橋下知事も「すごいですね。ぜひ会談をセットしてください」となり、今回の会談が実現したわけです。私はその時に副首都構想は間違いなく進むと確信をいたしたしだいです。
   そもそも石原知事には確固たる「持論」があったわけです。それは「首都機能移転反対」。かつての首都機能移転や首都の遷都ではとても賛同を得ることは出来ません。しかし石原知事は「東京に対する過度な集中集積っていうのは、私はちっとも好ましいとは思わない。一旦緩急(いざという場合)のときに、致命的なものになる」と語るなど、かねがね過密な一極集中に危惧していることは確かで、私は石原知事に「そろそろ、東京一極集中を本気で改める政治的ビジョンと実行が必要かと思います。首都機能のバックアップとして、もう一つの拠点を担えるのは今のところ大阪しかありません」と進言したわけです。
   私は、阪神・淡路大震災を経験いたしましたが、この阪神・淡路大震災(M7・3)クラスの地震が都心を直撃したら、経済的損失は東日本大震災をはるかに超える規模になるわけです。中央防災会議の被害想定では、東京湾北部を震源とするM7・3の地震が起きた場合、経済被害は約112兆円に達し、東日本大震災の5倍に相当し、国家予算にも匹敵するわけで、住民やライフラインも、深刻な被害を受けるわけです。最悪のケースでは、死者1万1千人、負傷者21万人、ほとんどは建物倒壊と火災が原因で、津波被害は想定されていおりません。発生直後は断水人口が1,110万人、停電は160万軒に達し、避難所生活者は460万人にも上ると想定されており、首都直下地震の被害想定は「一極集中」の弱さを物語っているわけです。
   今後とも副首都を担えるような行政機構と都市機能を一刻も早く整備出来るよう努力して参ります。